健康診断の封筒を開ける瞬間がある。数字の列、基準値、「特記事項なし」の文字。多くの場合、その紙は引き出しの奥に仕舞われ、翌年の同じ封筒が届くまで二度と開かれない。
ところで、その紙の余白は本当に空白だろうか。基準値という名の「許容範囲」のなかで、自分の現在地はどこにあるのか。上限ぎりぎりにいる数値と、理想に近い数値は、紙の上ではどちらも「異常なし」だが、十年後の体には違う影を落とす。
足し算の不経済
書店の健康コーナーに並ぶ言葉の多くは「足し算」を語る。玄米、スムージー、緑黄色野菜、果物、各種サプリメント。「これを足せば健康になれる」というメッセージが、いまも陳列棚を埋めている。
だが、もし日々のなかに慢性的に身体を傷めている食習慣があるとすれば、何かを足したところで、合計値はマイナスのまま動かない。穴の空いたバケツに水を注ぐ作業に似ている。
精密栄養学の世界では、「足すまえに知る、知るまえに引く」 という順序が共有されている。引くべきものを引かずに足したサプリやスーパーフードは、体内の代謝経路で交通渋滞を起こすだけだからだ。
基準値と理想値の、二倍の差
血液検査の数値には、二つの「正しさ」がある。
一つは 臨床基準値 ── 病院で「異常なし」と判断される範囲。もう一つは 精密栄養学的理想値 ── 細胞レベルで最適に機能する、より狭い範囲。前者の上限と後者の中央値のあいだには、しばしば数値にして二倍近い開きがある。
| 指標 | 一般臨床 | 精密栄養学 |
|---|---|---|
| 空腹時血糖 | < 100 mg/dL | 80〜90 mg/dL |
| HbA1c | < 5.6% | 5.0〜5.3% |
| 中性脂肪 / HDL 比 | 明示なし | < 1.5 |
| ホモシステイン | < 15 µmol/L | < 7 µmol/L |
例えば空腹時血糖。臨床基準では 100 mg/dL 未満が「正常」とされるが、機能性医学の文脈では 80〜90 mg/dL を理想域とする報告が多い。HbA1c も同様で、5.6% の上限値と 5.0% 前後の理想値のあいだには、十年単位で動脈の状態を分ける差が潜んでいる。
「異常なし」の紙の余白には、まだ問いがある。
糖質の影と、新しいガイドライン
2026 年に米国政府が公開した新しい食事ガイドライン realfood.gov は、長く続いた糖質中心の枠組みを根本から組み直したものとして、世界の栄養学コミュニティに衝撃を与えた。これまで栄養指導の中心にあった「主食を多めに」というメッセージは後退し、良質なタンパク質と脂質 ── 赤身肉、卵、魚、発酵食品 ── の位置づけが上方修正されている。
食品業界・製薬業界への波及は大きいが、背景の科学は意外と単純だ。日本でいう四大疾病 ── がん、心疾患、脳血管疾患、糖尿病 ── の発症経路の多くに、慢性的な高インスリン血症と糖化(AGEs: 終末糖化産物)の蓄積 が関与していることが、過去二十年の研究で繰り返し示されてきた。
糖質を過剰に摂れば、血糖を下げるためにインスリンが分泌される。慢性的に高い状態が続くと、インスリンは血管内皮を傷つけ、脂質代謝を歪め、細胞増殖シグナル(IGF-1 経路)を引き上げる。アルツハイマー病がしばしば「3 型糖尿病」と呼ばれるのも、脳細胞のインスリン抵抗性が記憶機能の劣化に関与するためだ。
「肉は体に悪い、米と野菜は体に良い」 ── 二、三十年前の食卓で繰り返された言葉は、いま、根本から問い直されている。
コレステロールという、粗い物差し
「タンパク質と脂質を増やすとコレステロールが上がる」 ── この言説もまた、精密栄養学の文脈では一段階の更新が必要だ。
総コレステロール値は、それ自体ではほとんど意味を持たない。重要なのは LDL の 粒子サイズ(small dense LDL は動脈硬化リスクが高く、large buoyant LDL は比較的中立)と、中性脂肪 / HDL 比 だ。後者が 1.5 を下回っていれば、総コレステロールが多少高くても心血管リスクは低いという報告が積み重なっている。
数字は、文脈のなかでしか意味を持たない。
カロリーではなく、PFC で見る
HIKYAKU が AI による食事解析にカロリー表示を採用していないのは、この観点による。カロリーは、現代の食生活を語る単位として粗すぎる。同じ 500 kcal でも、魚と野菜と少量の米のセットと、菓子パン一個では、体に与えるホルモン応答がまったく異なる。
代わりに採用しているのは、タンパク質・脂質・糖質(PFC)のバランスと、糖質の質、そして食事のタイミング。これらの組み合わせが、一日のインスリン曲線を左右する。
血液検査もまた、数字の羅列としてではなく、理想値との距離 として読み直すことができる。基準値の内側に居続けることは安全だが、理想値に近づいていく軌跡は、未来の自分への、もっとも静かな投資になる。
六十六日、という距離
行動が習慣として定着するまでに必要な日数は、平均 66 日 ── Lally らが 2010 年に European Journal of Social Psychology で報告した値だ。被験者ごとの幅は 18 日から 254 日まで広いが、中央値は 66 日に集まる。
足し算の前に、まず引き算を。引き算の前に、まず現在地を。
現在地を知るのに必要なのは、年に一度の健康診断と、毎日の食事への小さな注意だけだ。
清く美しく生きるとは、おそらく、いまの自分に誠実であろうとする習慣のこと。
数字は、未来の自分が、いまの自分に書き残す手紙でもある。
※本記事は情報提供を目的としており、医学的助言ではありません。検査値の解釈や食事改善については、医師・登録栄養士・専門家にご相談ください。